鼻の奥でツンとする、消毒液の臭いがした。
 
 重たいまぶたを開けると、白。天井と布製のパーティション。ベッドに横になっている。よくよく見知った保健室だと瞬時に判断し、嘆息した。

 ゆっくりと上半身を起こした途端にくらくらして、はいだばかりの掛け布団に掴まった。珍しいことではなかったので、倒れたらしい、と理解するのに時間はかからなかった。ただ、意識を失ったのは久しぶりだ。

 今日の日差しはあまりに強くて、強敵だった。

 ぼんやりとパーティションの布を見つめていたら、鮮やかな緑の葉をわさわさとつけた大きな桜の木のことを思い出した。近所の河川敷の土手に生えている、大きな日影を地面に落とす太くて立派な大木。そう、学校帰りに、行こうと思っていたんだった。一人でぼうっとするには最適な、お気に入りの日影。今日は無理そうだなと小さく嘆息する。

 グラウンドからか、野球部のものらしきかけ声が聞こえてきた。今、何時だろう。徐々に眩暈が治まり顔を上げると、パーティションの向こうで動く人影に気づいた。保健の中原なかはら先生だろう。あの、とそろそろと声をかけた。

「気がついた?」

 勢いよくパーティションが開き、声にならない悲鳴を上げた。覗いた小麦色の顔は、中原先生ではなかった。
 
 三谷野みやのたけし

 うちの中学でその名前を知らない奴は、転校してきて一日目とか、そういう事情でもないかぎりいないだろう。というか、断言する、知らない奴はいない。

 何もしていなくても、そこにいるだけで目立つ奴だった。見た目が派手だとか、そういうわけじゃない。オーラ、なんていうと大げさだけど、嫌でも目につく、いることを意識させられてしまう、存在感のかたまり。

 一年中日に焼けた肌色をしていて、休み時間は必ず片膝を立てて机の上に座り、クラスの男子たちを従える様子はまるでサル山のボスだった。そんなサル山を遠巻きに見ている女子の中にも、きっかけさえあれば三谷野としゃべりたいと思っている子が少なからずいた。去年のバレンタインデーはまさに三谷野の一人勝ちだったという。

 男女問わず人気のある三谷野を、現在のような状態にいたらしめている最たる理由が、その頓着と遠慮のなさだった。自分がボスであることを自覚していながらも、それを鼻にかけることはなく、かといってしごく当然のような顔をした。女子にモテることですら、そうだけどそれが何か? と言わんばかりの顔をしてみせたりする。ほかの奴がやったらカチンときそうなところだが、それを感じさせないだけのあっけらかんとした部分がまた、三谷野の魅力の一つであるらしかった。

 加えて、そのキャラクターだけでなく、三谷野はポテンシャルもなかなかに高かった。運動神経抜群のサッカー少年で成績もそこそこ優秀。その一方で年中学校をサボり、他校の不良とつるんでいるという黒い噂も絶えない。ファンの子に言わせれば、「そのミステリアスな部分がたまらない」。

 そんな三谷野の通り名は『万年晴れ男』。三谷野が学校をサボると雨が降るとの噂はあまりに有名だ。

 ……と、前置きが長くなった。つまりは、こういう三谷野なので。

 日影に近いところに存在している私と、同じクラスに属しているという以外の接点などあるはずもなく。別世界の住人である彼が保健室で私の目の前にいる理由が皆目理解できない。

 サッカー部の練習を抜け出してきたのか、汗染みのついた紺色のユニフォーム姿だ。口を開けたまま言葉も出ない私に、三谷野は白い歯をのぞかせて笑みを向けた。

「水でも飲む? ここにコップあるからさ」

 背を向けた三谷野を、ちょっと待って、と止めた。

「中原先生は?」

「先生はなんか電話がかかって来たとかで職員室。江藤えとうのことは俺が見てるから遠慮なくって言っておいた」

 なんで三谷野が私の看病を申し出る? 訊こうと思ったその瞬間、くらっとした。眩暈。

 ベッドに再び倒れるかと思った。が、予想に反して体は何かに支えられた。

 健康そうな汗の臭いが漂う。顔を上げると、三谷野の手が私の肩を支えていた。ぎょっとして体を引いて、結局ベッドに倒れ込んだ。ごめん、と三谷野は頬を掻いた。

 掛け布団を頭までかぶって、働きの鈍くなっている脳味噌で考える。

 何? 何これ?

 取り巻きの子たちなら鼻血を出しそうなくらいのシチュエーションであろうことは理解できた。が、ろくに話したこともない上に、三谷野のことをボスザルとしか思っていない私にしてみれば、混乱以外の感情など発生しようがなく。

 そっと、布団から目元を出した。途端に三谷野と目が合ってまた布団をかぶった。

「あのさ」

 三谷野は私の疑問に答えてくれた。

「江藤が倒れてたの、俺がここまで運んできたんだ」

 ようやく現状を認識でき、混乱がおさまった。なんだ、と息を吐き出し、掛け布団から顔を出した。ゆっくりと上半身を起こしてみた。目眩は起きなかった。

 何はともあれ、ありがとうと礼を述べる。

「よくあることだし、もう大丈夫だから。サッカー部、戻っていいよ」

 三谷野は私の言葉に反し、近くのパイプ椅子を引き寄せてどかっと座った。

「心配だから先生が戻ってくるまでここにいる」

 本格的に居座るつもりらしいその様子に、にわかに不安になった。

「三谷野がここにいる理由なんてないじゃん」

 それから、心の中で付け加える。そんなところにいられても、気まずいだけだし。

 一刻も早く出ていってくれないかと内心ため息をつきつきその顔を見たら、三谷野はなぜか真剣な面持ちになっていた。

 すっと立ち上がり、理由ならあるよ、なんて私を見下ろす。私が知っているボスザルのものとは異なるその表情にほんの少しドキリとしたものの、不信感が勝った。自分でもわかりすぎるくらいに眉根が寄る。すると、今まで威勢がよかったのが嘘のように、あのさ、ともごもごしてから、三谷野は意を決したように顔を上げた。

「体調が悪くなければでいいんだけど。あさっての夏祭り、俺と一緒に行かない?」

 学校と駅の中間地点にある、稲浜いなはま神社の夏祭り。たくさんの出店が並び、小規模な花火まで打ち上がるこの辺りではわりと大きなそのお祭りに、男子と一緒に行く。それには、大きな意味があった。

 稲浜神社のお祭りに行くと、カップルが成立する。

 まぁ、一緒に祭りに行こうとどちらかが誘い、承諾した時点でカップルが成立したに等しいのだけど。恋愛成就を売りにしている稲浜神社にあやかったそんな話は、うちの中学では常識中の常識、鉄板である。稲浜神社の祭りに一緒に行くということは、つまりはそういう意味だということで。

「……からかってる?」

 と返す以外、どう返せと。三谷野くんとお祭りに行けてキャー嬉しいー、なんて喜び騒ぐ理由は私にはないぞ。

 少しむっとしたように、三谷野は自分の顔を指差した。

「これが冗談言ってる顔に見える?」

 いつもにこにこお調子者の三谷野が少しくらいむっとしたところで、万年楽しそうな表情が変わるわけもない。黙って首肯すると、ウキーと頭をかきむしるサルのごとく三谷野はほえた。

「なんで? 俺、すんげーがんばって言ったのになんでそーなる?」

 わめいた三谷野の声が頭に響いて顔をしかめた。そんな私に気づき、三谷野はごめんっ、と大人しくなった。

「とにかく、嘘でも冗談でもないんだって」

 わけがわからないし、頭痛もあいまって段々とイライラしてきた。

「嘘でも冗談でもなかったらなんなの? 罰ゲーム?」

「だから、そーゆーんじゃないって」

 どーしてわからないかなぁ。三谷野は困ったようにぽりぽりと頬をかいた。

「俺、江藤のこと好きだ」